まずは個人的に胸にささった先人やヒーローたちの言葉を紹介します。

ひとより頑張ることなんてとてもできないんですよね。
あくまでも測りは自分の中にある。それで自分なりにその測りを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと越えていく、ということを繰り返していく。
そうするといつの日か、こんな自分になっているんだ、っていう状態になる。
だから少しずつの積み重ねが、いやそれでしか自分を超えていけないっていうふうに思うんですよね。
2019年3月21日イチロー選手引退会見にて

0.2%の改善といっているのですが、0.2%ずつ毎日よいことしていくと365日たつと200%くらいになるんですよ。複利ですね。
そうすると2年で400%、3年で800%にもなる。
そんなイメージでいろいろなことをやっていけばいい。
勝間和代チャンネル

戦いにまけて馬上で脱糞したわたしを絵にしてくれ。
神は細部に宿る。
ドイツの美術家、建築家の言葉
いまはネット社会だし地球上には50億人もいるのだから、自分が一生懸命考えことは他人も考えて当たり前だしその逆も真なり。
自他のアイデアの区別があいまいになっている。
だからこそ、自分が思考をしてたどりついたよいフレーズ(自分語録)はあとから思い起こすことが大切。
自分語録を思い起こすことで、時間をかけて頭をひねって考えたという経験自体を思い出せる。
たとえて言うなら、考えた経験というのはいろいろな道をあっちこっち歩いたことであり、自分語録とはそれをまとめた旅行記である。
自分と他人の旅行記の見分けがつくように、自分のものをわけて記録しておく。
自分語録
自分の頭の中はすべて見られている。
自分の外見、自分の話す言葉、それが頭のなかのすべてなのだから。
— 最小限主義者 / 相互フォロー💯follow back (@100okuribito) October 9, 2022



ネットには二種類の人間しかいない。
中毒になる人間と、中毒にさせる人間だ。

本とYouTubeのちがい。
どちらも賢い人、すきなひとが近くにいるきがする。
視覚聴覚情報がある動画のほうが近くにいる感じがつよいが、じつは本でそのひとの思考を追体験するほうがそのひとをとりこめる。

本とYouTubeのちがい。
動画は土足で勝手に自分の脳内に入ってこない。
土足でずかずかと自分のテリトリーである脳に入ってこられると、脳は疲弊し汚くなる。

本とYouTubeのちがい。
文字の発明を享受できること。
動画はテクノロジーが必要だったから本より高級なイメージがあるが、実は逆。
動画は所詮は話し言葉で、そんなものは原始時代からある。
一方、本は話し言葉のあとに文字が発見された後のものである。
本により人間の思考、しかもまとめきった思考をぱらぱらとページをめくって視認することが可能なのである。
「文字により整理された思考をパラパラと視認する」というのは、やがてはVRなどのテクノロジーでできるようになるだろうが、それまではぜったいに動画より本の方が高級ということになる。

芸術とは人間に普遍的で共通了解性のあることを全生命力が上昇する方向で、独自の方法で表現すること。
例えば、思いやりというものを、オリジナルな場所、時間、人物が映画の中で表現するとき、芸術になる。

一個ずつ、一秒ずつ、ちょっとずつ

この世界をまず認める。ビルも、お歳暮も、お歳暮がすたれてきていることも、言葉も、先の大戦も、すべて気の遠くなるような時間のなかで人間がやってきたこと、その結果であるから、それをまず認める。

自分が何をやりたいかを明確にしろ、他人にそれをゆだねるな。自分の行動を他人にゆだねて、他人のご機嫌をうかがう奴は気持ちが悪い、人生で何をすればよいかなんて誰も知らないんだ。自分の行動、やりたいことを、他人からの評価、他人の目を根拠にして決めるな。自分と本気で向き合え。

他人との比較で安心しようとしない。他人より何かが上回ったから俺は今大丈夫だ、と思うのは死ぬ前にどんな満足をもてるだろうか、なにもないだろう。すぐ隣にいる人、同じ時代にたまたま生きているひとと比較しても何の意味もない。自分自身がどういう人間になりたいかを考えろ。