自宅で仕事をしていると、理由もなくコーヒーが飲みたくなることがある。
理由がない、というのが理由なのかもしれない。思考が少しだけ空回りしはじめたとき、頭の中で小さなランプが点滅する。その合図としてコーヒーを淹れる。
私はふつうの会社員で、生活は必要以上に整っている。
豆は棚にあり、器具も揃っている。水も電気も問題なく使える。外でコーヒーを買う必然性は、どこにもない。
一杯数百円のコーヒーが、長い時間の中でそれなりの金額になる、という話を聞くたびに、私は特に反論もせず黙ってしまう。ラテマネーなんていう造語をつくらなくたって、みんなずいぶん前からわかりきっている話だ。
その話は、だいたいいつも正しい。正しすぎて、会話が終わってしまう類の正しさだ。
紙カップのコーヒーを持って歩く人を見ることがある。
その人たちはどこか一時的で、仮の存在のように見える。今ここにいて、すぐ別の場所に移動する。カップはその証明書みたいなものだ。
私はあの細い飲み口が好きではない。
熱いものが直接やってくる感じがして、信頼できない。信頼できないものは、できるだけ口に近づけない主義だ。
でも最近、実は大手コーヒーチェーンのプリペイドカードを手に入れた。
手に入れたというより、プレゼントとしてもらったのだ。
だから仕事が一段落すると、自然に「コーヒーでも」という流れになる。私は節約を信条にしてが、手元にプリペイドカードがあるのだから、使わない手はない。
何度かそういう日が続くうちに、わたしの猫舌を不意に攻撃してくるあの紙カップにも慣れた。
人はたいていのことに慣れる。慣れるというのは、理解することではなく、諦めることに近い。

ある日、飲み終えた紙カップを捨てずに持ち帰った。
そして自宅で淹れたコーヒーを、そこに注いだ。
味は変わらない。
それなのに、机に向かう姿勢が少しだけ変わった。
私はそのとき、もう一杯、コーヒーを買った気分になっていたのだ。
カップの重さ。紙の感触。フタを外す小さな動作。
それらが揃うと、脳は簡単に話を信じてしまうらしい。
「これは仕事用の時間だ」と、誰に頼まれたわけでもなく納得してしまう。
人は中身よりも、出来事を飲んでいる。
それ以来、私はときどき紙カップを使う。お金は減らないが、気分は少しだけ移動する。
それは旅行というほど大げさではなく、席をひとつずらすくらいの変化だ。
コーヒーはただの液体だ。
だが、容器が変わると、物語が付属する。
私はラテマネーを使わない。
その代わり、ラテマネーを使ったという設定だけを、静かに採用している。
それで十分な日も、たしかにある。